感情を押し殺して生きている
仁川空港に到着し、飛行機を降りてくる人たちを、見た目やちょっとした仕草から、韓国人なのか日本人なのか推測したという、前回の話の続き。
入国審査では韓国人と外国人は違う列に並ばなければならないので、そこで答え合わせができたのだが、正解率はざっと7割くらいだった。正確にいうと外国人列には日本人以外の人も並ぶので、もしかしたら彼らが日本人ではなく中国人やベトナム人だったという可能性もあるけど、日本と韓国を結ぶ便の乗客ということでその確率は低いだろう。日韓の2者択一ということで考えたときに勝率7割というのは、予想以上に低い正解率になってしまった。
ロンドンに留学しているとき、パートナーの雪恵さんと、街で見かける人の出身地を当てるゲームのようなことをよくやっていた。まずターゲットを決める。その人が何も言葉を発しない場合は、その人の見た目や仕草で判断するしかないので「ドイツっぽいなあ」といった推測だけで終わる。もし同伴者がいればやがて話し声を聞くことができる。フランス語を話し始めれば、少なくともフランス語圏の出身者であることはほぼ確実なのだが、ロンドンという場所柄、英語で会話が始まることも多く、そうすると英語の発音がヒントになる。同じ英語圏でも、アメリカとインドと南アフリカでは発音の仕方が違うし、スペイン人とドイツ人の話す英語は違う。あとイギリス国内の出身者でもスコットランドやウェールズの訛りがあるし、ロンドンでも中心部の大企業で仕事をする人と、下町のおっちゃんの英語はまったく違う。僕が作品制作のために通ったロンドン南部のブリクストンでは、商店街のお店の人たちにインタビューして文字起こしした時に、どうしても聞き取れないフレーズがいくつかあって、ロンドン育ちの雪恵さんに助けてもらおうとしたけど、それでもうまく聞き取れないところがあった。田舎の話じゃなく大都会ロンドンですら、聞き取れない英語もある。
英語の訛りを聞き、それを過去に耳にしたことのあるさまざまな英語の記憶と照らし合わせて、出身地を当てる。フランス、ドイツ、スペイン、イタリアあたりは、過去に旅行したときに経験した、現地の人たちの英語のアクセントのクセが記憶に残っているので、比較的当てやすい。旅行だけでなく仕事や留学などさまざま理由で、世界中から多様な人たちがロンドンにやってきて生活し、そして去っていく。そんなロンドンだから楽しめるゲームだった。
雪恵さんの両親は日本人だが、お父さんが海外赴任していた関係でアメリカとイギリスで育っていて、彼女は今までの人生の半分以上をイギリスで暮らしてきた。だから彼女は何人なのか?と問われると少し困ってしまう。彼女の話す英語は基本的にはイギリスのアクセントだけど、海外旅行先ではアメリカ英語だねと言われることもある。アメリカからイギリスに引越したときにはクラスメイトの英語が全然分からなかったりして、思春期は英語でとても苦労したらしい。日本人だという話になると、日本について色々と聞かれたりして、日本に長く住んだことのなかった雪恵さんとしては困ってしまうこともある。僕が学生の頃も、帰国子女や在日外国人がまわりに多くいたので、どこの国の人かは分からないけどそれが私です、という人に身近に接することが多かったので、国籍や出身地を聞くことの難しさも分かっている。どこの出身であっても今ここにいる私が私で、あなたがあなた、そう考えたいと思っているから、出身地の当てっこゲームをして、国籍なんて笑い飛ばしてしまいたい、というのが、雪恵さんや僕の本心なのかもしれない。
国籍や性別や年齢で、人を区別などできない(と思いたい)
だから、仁川空港の日韓人識別率7割、という結果については、僕自身、ちょっとホッとしたところがあった。人は見た目じゃないよね、ほら、国籍や性別や年齢で人は簡単に区別なんてできないじゃないか、と勇気付けられた気もする。空港からソウル駅まで電車で移動して、駅近くの飲食店でカムジャタンを食べていたら、岸田首相の記者会見がテレビに映っていて、パッと見たときに、韓国の政治家かなと思ってしまった。その後、本物の韓国の政治家がテレビに出てきて、その人は日本人ではなさそうだと感じたのだが、この人でも、目線の動かし方やふるまいを少し演出したら、日本人を演じられるんじゃないかなとも思った。国籍や出身地というのは多少は「ハッキング」できるんじゃないか。イギリス人と日本人ではさすがにちょっと誤魔化せないけれども、日中韓〜東南アジアくらいまでならなんとかなりそう。ベトナムに行ったことのある日中韓の方がいたら聞いてみたいんだが、同じ国の友人にベトナム人っぽい顔つきの人が2〜3人くらいいるんじゃないかしら。はるか昔、今のような国境ではない時代から、私たちは山や海を越えて移動してきたのだから。そういう意味でも日中韓の隣国というはいろいろと遊べそうだなと思う。
次の日の夜、別の飲食店を訪ねた。僕は韓国料理のタコ炒め(ナクチボックム・낙지볶음)が好きで、3週間くらい前にも自宅で作ったのだが、ホテル近くの飲食店を事前に調べていたところ徒歩3分のところにタコ炒め丼(ナクチトッパプ・낙지덥밥)の店があったので、滞在中に3回くらいはその店に行こうと決めていた。食べ物の写真ばかり載せるとグルメブログのようになってしまいそうだが、毎日食べたいぐらい好きなので掲載します。
ナクチトッパプ屋のおじさん客たち
丼ぶりを頬張りながら、となりの席に座っていたおじさん6人組をしばらく観察していた。とてもよく喋るおじさんたち。何を喋っているのか僕にはまったく分からないけれど、前のめりになったり、表情や身振り手振りを使って感情豊かにお喋りしているようだった。ふと他のテーブルを見渡してみると、前側にもお喋りおじさんが2人、左前にもお喋りおじさんが2人。ナクチトッパプに夢中になっていたあまり、僕は知らぬ間にお喋りおじさんたちに囲まれてしまっていた。
しかも1人だけが喋って他の人がそれを聞くのではなく、それぞれが想い想いに語っている模様。東京の居酒屋にこんなに生き生きと語るおじさんっているだろうか。田舎だったり大阪あたりにはいるのだろうか。少なくとも東京の居酒屋で見かける風景とはちょっと違う気がした。東京に戻ったら新橋や蒲田あたりでまた観察してみたいと思う。
感情を表に出す
韓国には、感情をストレートに表に出す人が多い、という話を聞いたことがある。僕も前にソウルに来たときに同じようなことを感じた。じゃあ逆に言えば、東京のおじさんは感情をストレートに出していないのだろうか。もちろん、韓国でも日本でも、感情を豊かに表現する人と物静かな人がいて、個人差は大きいだろう。それでも平均的に見て、感情の出し方に違いがあるという傾向があるのだろう。こうしたことを指し示すのに「国民性」という言葉が使われることがあるが、ではその「国民性」とやらは、いつの時代にどのようにして形作られていったのだろう。もし僕が、韓国で生まれ育ったとしたら、もっと感情をストレートに表現する人に育ったのだろうか。このおじさんたちと仲良くなって、おじさんたちとナクチトッパプを何度も食べれば、僕も感情をもっとストレートに表現できるようになるだろうか。
感情を表に出すということを考えていて、大学時代の彼女から「だいちゃんは何を考えているのかよく分からない」と突き放されたことを思い出した。ニコニコしていていつも冷静で、育ちも良くて、人付き合いも良く、優しそうな顔はしているけど、心がどこにあるか分からない。彼女の目にはそう映っていたのだろう。そんな自分が嫌になって、情緒不安定な友人を羨ましいと思ったこともあった。自分の感情を大切にしようと心がけた結果、今では前よりも感情を表に出すことができるようになったけど、それでも頭ばかりで考えて、感情をどこかに置き忘れてしまったような自分を感じることがあって嫌になる。
海外に長く滞在してから日本に戻ると、この国の人たちは、会社でも家庭でも、何か感情を押し殺して生きているんじゃないかと思うことがある。コンビニに行って「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の声を聞くとき、そこには感情が空っぽになった、形だけの挨拶があるように感じる。その人自身がそこに立っているのではなく、コンビニ店員という役柄を「演じる」別の人が立っている。素のままの自分ではいられない社会。感情を押し殺しているうちに、感情を失くしてしまうような状況。仕事においてある役柄を演じる、ということのは、どこの社会でもあるのかもしれないが、僕は特に日本にいるときにその傾向を強く感じる。
これは渋谷にあるデパートの化粧品売り場。朝の開店時の様子。通路を歩くと店員さんが「いらっしゃいませ」の声と共に深くお辞儀をしてくれる。まるで殿様になった気分だ。でも自分では殿様ではないし化粧品も買わないので、申し訳ない気持ちしかない。最も違和感があるのが、いらっしゃいませという言葉に「ようこそ」「来てくれてありがとう」という気持ちをまったく感じないこと。もしかしたらこの国では、感情を極力排除することが礼儀正しいということなのかもしれない。
感情を押し殺すという礼儀
礼儀正しく社会的にふるまうことと、感情を排除するということの間に、何かの関係があるのだろうか。もしそうだとしたら、そうした習慣(国民性?)はどのように生まれたのだろうか。この週末にはソウルのデパートで接客業のふるまいを観察してみようと思う。そうすることでもう少しヒントが見えてくるかもしれない。